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今日は1月15日でちょうど月の半分過ぎた。
今年は身近な人の別れから始まった。 自分より若い人を見送るのはなんとも言えない。 夜、寝床で常盤新平の『雨あがりの街』文春文庫を読んでいる。 その中の「行きつけの本屋」のなかから <金と時間のかかった本が好きだ。これは何も豪華本のことではなく、金と時間をかけて書かれた本である。本を読む楽しみとは、そういう豊かな感じのする本を見つけることだと思う。そのために、というよりその結果、つまらないものまで読まされてしまう。こうして無駄を経たすえに、やっと自分の楽しみ、自分の糧が見つかるのではないか。> 何人もこれに似た事を書いている。 「古本屋」では <大きくて立派な古本屋にはいると、ゆったりした気分になる。世の中が忙しいことなんか、しばし忘れてしまう。古本屋で生き残っている、堂々とした本を見ると、こせこせしたってはじまらないという気がしてくる。 -略- 古本屋のおやじの愛想のなさも好きである。どこの古本屋に行っても、にこにこしている主人の顔を見たことがない。それどころか、客のほうをときどき上目使いでじろじろとうかがったりする。にこにこしている古本屋なんて気持ちが悪い。> 後半については賛否両論あるだろう。 「市井の人たち」 <仕事に疲れて一服しているときなど、ふと考える。こういう生活は、いつまでつづくのか。一生つづくほど、自分の生活は安定しているだろうか。 -略- 家を買ったけれど、その家を出て、どっかに消えてしまいたくなることがあるよ、ともう一人の友人が言った。仕事も生活も型にはまってしまうと、こんな気持ちになるのだろうか。安定とは、がんじがらめの、しかしぬくぬくとした状態をいうのかもしれない。 何くわぬ顔をして平々凡々と生きる男がじつは、世にも物騒なことを考えていると空想するのは楽しい。温厚そうな、善人そうな顔をして-彼がその危険な考えを実行に移すまでの距離は、無限に遠いはずだが、しかし、意外に近いのではないかという気もする。 安定も仮の姿ではないか。明日はどうなるかと思い、明日はどうにかしたいと思い、明日をも知れぬわが身に一瞬絶望的になるのは、保守革新の政治家とか財界や労働組合のボス連中とか文化人ではなく、黙々と生きるしかない市井の人たちだと思う。> わが身を振り返ってみると、途方に暮れるような事も多かった気がするが、なんとか無事に今日に至ったのは幸運だったとしか言いようがない。 身近で接する若い人たちの、安定とは程遠い奮闘ぶりをみていると健気で頼もしい。 常盤新平はおしゃれでもあったようで、若い女性の服装についてとか、ネクタイの事とかを書いている。 「ネクタイについて」 私は、趣味のいい、しゃれたネクタイを締めている人を見ると、その心意気にあっさり脱帽してしまう。ネクタイのために、その人に好意を持ったこともあった。 なぜ私がかくもネクタイに執着するのか、その理由を考えてみると、結局ネクタイほど不必要なものはないのではないかということに落ち着く。 -略- どういうわけか、不必要なものだからこそ貴重なのだという偏見が、牢固として私の内部に残っているようだ。ネクタイも、不必要なものと思われているから、私は大切にしたいのである。私がそんな偏見に支配されるのは、自分が身も心もあまりにもみみっちい世界に生きているからではないのかという気がする。もともと、なんらかの効用を計算して身につけるというのでは、いかにも情けない気がするのだ。合理主義も機能主義も大いにけっこうだけれども、だからネクタイなんか捨てちまって、トックリのシャツやセーターを着ようでは、そこに軽薄しかないのではないかという気がしてくる。 -略- まあ、新調の背広を着て、それこそその背広となんの関係もなさそうな、しょぼくれたネクタイを締めている男に出会うと、ああ、もったいないことをしているなあ、という気がする。仏つくって、魂入れずとはこのことではないのか。 もっとも眼につかないものが、じつはいちばん眼につく-これがネクタイの魅力だと思うのである。>云々 私もその昔、暇があるとよくデパートや元町商店街などでネクタイを見てまわった。 夫は服装に無頓着な男だったので仕方なくすべてを私が買っていた。 そのせいで電車に乗っても、街を歩いていても、商談中でも、眼の前の男性の背広やネクタイに眼がいった。 そしてなんともセンスのいいネクタイを着けた男性を見つけると、それをどこで買ったのか聞きたい衝動に駆られたのを思い出す。 センスのいいネクタイを探し出すのはとても難しかったが、これぞと思うものを見つけた時はうれしかった。 私が着けるわけでもないのに。 常盤新平はこうも言っている。 <私の持論を申しあげるならば、ネクタイは背広やシャツだけに合わせるものではなくて、顔にも合わせなければならない。> こう言われると私の苦労は報われたのかどうか判断に苦しむが。
by k-turezure
| 2016-01-15 14:30
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